大学教員という職業
この研究室の主催者である成川は大学教員という職業に従事しており、一般社会からは「教育者」という側面が強く意識されているように思われるが、成川を含めた多くの大学教員、少なくとも周りの近しい人達は、自分の「教育者」としての側面よりも「研究者」としての側面をより強く意識しているように思われる。我々大学教員の多くは基本的に「教育者」としての正式な教育は受けておらず、「研究者」としての教育を受けて、その証として博士号を得ているので、「研究者」としての意識が強いんだと思う。その上で、それぞれの教員がしっかりと「教育者」として振る舞うための努力をしているし、実際に教育にかなりの時間と労力を割いている。また、行った実験結果を論文にまとめたり、予算獲得のための研究計画を立案・文章化したりする上では、文筆業を営む「文筆家」のような側面も持つ。さらに、研究室単位で見るとPI(Principal Investigator: 研究室主催者)である場合、研究室を一つの小さな企業のように捉えることができ、その観点では「経営者」としての側面も持つ。そのような「経営者」でありながら、学部・大学全体という観点から見ると、「被雇用者」、「組織人」であり、学内委員会や学会活動においては、「管理者」、「運営者」的な振る舞いにもなる。そして、それぞれの側面で求められる能力、技術等は重複するものの、その大半は特殊化しており、それ故に、それぞれの側面のタスクを全て高いレベルでこなすには高度な適応力が問われているように思う。他の職種に自分自身は従事したことがないので、何とも言えないが、中々に特殊な職業なのではないかと感じる。そして厄介なのは、多くのタスクが積み上がった時、これらの振る舞いの中で、不本意ながら最も蔑ろになりがちなのは、「研究者」「文筆家」としての側面なんである。というのは、これらの振る舞いによる行為の多くは、期限が設けられておらず、絶対にやらなければいけない具体事案に欠けるからだ。研究については、基本的にいつまでに何をしなければいけない、ということはない。実際に実験をすると、想定していたよりも時間がかかる場合もあれば、あっという間に終わってしまう場合もある(前者の場合がほとんどであるが・・・)。予算申請には勿論、締切があるし、論文投稿を招待された時も締切が存在する。とはいえ、これらについても、絶対にこなさなければいけない類いのものではないのである。こうやって、大学教員には、「研究者」という側面を強く意識しているにも関わらず、それを蔑ろにしなければいけない状況に追い込まれている人が多いように思える。つまり、研究者に向けた「やりたいことをやれているんだから・・・」といった常套句が、残念ながら通用しない状況になりつつあるとも言える。成川は幸いにも、まだそこまで多くのタスクを抱えるに至っておらず(個人的には既にいっぱいいっぱいであるが、、周りを窺うと、遥かに多いタスクをこなしている人が山程いる)、なんとか「研究者」としての側面を強く押し出してやりくりできている自負がある。今後、タスクが減っていく可能性は限りなく0に近いので、今のうちから、今後タスクが増えていった時にどう振る舞うかについて、しっかり備えておくことが肝心であるように思える。この文章を残そうと思ったのも、このような状況を整理し、今のうちから向き合う必要がある、というか、今から向き合い準備しないと間に合わないと感じたからである。5年後、10年後に、たとえ研究に注力する時間が物理的には減ったとしても、「研究者」としての自分がぶれずに在るために、やれることをやっておきたい。