論文を書くということ
成川の所属する研究領域においては、研究成果をアウトプットする行為として、学会発表、総説執筆などの行為もあるが、最も重きを置かれるのは、原著論文の執筆である。そして僕らの領域の場合、基本的に英語で書かれた原著論文を出すことが重要となる。研究とは個人や研究室単位で営まれる活動ではあるが、それらの活動の成果は世界全体で共有されるべきである。「車輪の再発明」が起こらないためにも、世界で共有できる形でアウトプットすることが肝心である。その意味で、現時点での研究業界における共通言語である英語で原著論文を執筆することが基本となる。また、自分たち自身が「車輪の再発明」をしてしまわないために、研究をする上で、先行研究を事前に精査しておくことも必須である。大学で行われる研究の費用は多くの場合、大学の運営費や外部資金によって賄われており、外部資金の大半は日本学術振興会や科学技術振興機構等の国の機関から支給されている。つまり、研究の大半は税金で賄われていると言える。理学部に属し、学術的な問いに答えるというモチベーションで研究を進めている立場であっても、というか、そういう立場であるからこそ(今すぐに分かりやすい形で世の中の役に立つ研究をしているわけではないからこそ)、得られた結果を外に出さず、ただ自身の好奇心を満たすためだけに研究行為に従事してはいけないのである。そして、既に他の人達が取り組んでいる既知の事象に人やお金を投入することも避けねばならない。つまり、研究者は常に自身が身を置いている研究業界の動向を把握し、その上で未だ報告されていない事象について研究を進め、それによって得られた成果については、なるべく早く原著論文という形で世の中にアウトプットすべきなのである。もちろん全ての研究が順調に進むわけではなく、研究成果をアウトプットできない日々を過ごすこともある。また、たまたま他の研究者と同時に似たような研究を進めており、相手に先に成果を報告されてしまうこともある。さらには、論文を投稿しても査読プロセスにおいて厳しい指摘を受けて、なかなか世の中に出せない事態も頻繁に起こる。その上で、成川としては真摯に不断の努力で研究行為とそのアウトプットに邁進していきたいと思っている。こうやって書くと、研究行為や論文としてアウトプットすることは、困難が多く辛いことばかりだと思ってしまうかもしれないが、そんなことはない。未知のことが解明される現場だからこそ味わえる興奮、予期しない結果が得られた時の驚き、論文審査において、査読者から高い評価を受けた時の嬉しさ等、良い面を挙げたら枚挙にいとまがない。
また、別の視点で大学に所属するPIという立場で考えてみると、成川が所属する学科においては、3人程度の学部生が卒研生として研究室に所属し、そのうち凡そ1-2名が修士課程に進学する。博士課程に進学する学生は稀だが、修士課程まででも3年間である。つまり、2人の学生が毎年修士に進学という状況が5年間続き、トータル10人の学生が3年間研究に従事した場合、延べ30年間分の研究が行われた計算になる。もちろん、最初のトレーニング期間や就職活動期間を考慮すると、もっと少なく見積もる必要があるが、それでもかなりの時間である。つまり、それだけの人的・時間的リソースを割いて研究を進めているという自覚をPIは持つべきなのかもしれない。学生を指導するのも、責任があり気苦労の多いことだが、こちらもやはり実りが多い。当初はこちらの考えに頼りきりだった学生たちが、自ら思考し結果の解釈を行ったり、独自の仮説を提唱したり、それを検証する実験を提案したり、という成長ぶりを目の当たりにできるのは、非常に貴重な経験である。
論文を書くということは、産みの苦しみを伴った困難な道程であるが、上記の様々をトータルとして楽しみながら大学での研究生活を満喫していきたい。